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【Report】12月23日「ふくしま新発見講座“新地方学”入門」

12月23日(水)、東京豪徳寺の編集工学研究所ブックスペース“本楼”にて「ふくしま新発見講座“新地方学”入門」が開催された。
東京公演は、第1回「宮沢賢治と再生の物語」(明治大学)、第2回「ふくしまひとしずくの物語」(本楼開催)に続く3回目。震災から4年9か月が過ぎたフクシマの今に軸足を置き、明治末期に新渡戸稲造や柳田国男が唱えた「地方学」を取り上げ、福島の「地に根差すもの」の方法を探った。

急な告知にもかかわらず、「東京では福島の報道を見なくなった」「今の福島を知りたい」と震災を考える契機にしたいと開催前から反響があり、当日急遽申込みした方も駆けつけた。

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装丁が目を引く『川内村史』

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手にとれるよう震災関連や地方学の本も並べられた。

●オープニング

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代表・田母神顯二郎より「22日は冬至。冬至からクリスマスは昔から節目の季節。一つのことが終わり、新しいことが生まれる再生の時でもあります。福島の再生を願い、活動している私たちもここで生まれ変わって活動を続けていきたいと思っていますのでよろしくお願いします」と挨拶。

鈴木からは、震災から4年が過ぎ、震災体験の言葉を紡ぎ語り始めた人々や福島と人々の遣る瀬なさを話す。
急ピッチで進められる復興公営住宅の建設。その一方で、仮設住宅から復興住宅へ入居した方は「仮設住宅は大正時代の長屋の様で良かった。ここはドアを閉めると静まり返る。まるで監獄のようだ」と話していたこと。
県内各地で進む除染でも「山の1センチは100年分、表土5センチは500年分。これが除染で剥ぎ取られる」と語った農家の方。矛盾、不合理を内包しながら生きる福島の人々の姿が伝えられた。

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司会森井一徳は、「鈴木さんの肉声が福島を感じる。巷で報道されている福島の部分もあるけど、分かり切れないこと、感じられていないこともある。これを感じられるのがこの活動です」と言葉を添えた。

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「福島原発難民とはなにか、非常に難しい問題だ」と松岡正剛校長。

震災から1,2,3年経って、感情として吹き上げてくることを語るのはなかなか難しい。その時代の全てを集約しながら捩れ、ストレートに出ていく。3.11直後だと、聞く耳もなく浮いてしまったものが、5、10年過ぎると見えてくることがある。これまで震災を語ってきた言葉が違うのではないかと、自分たちの言葉を作っていく。福島難民の物語を言葉にしていく、どうなっていくかは楽しみにしたい。

また、復興、イノベーション、政府や自治体の復興力と自分が復興したと思えることがまた違う、この二重性、多重性がとても難しい。物理的に破壊されたものが復興することで見えることがある。これはこれからも抱えていく問題。

新地方学も大事。どこで郷土を語るのか、そこの奥に潜んでいる、メタなアーキタイプを語るのか。
地方学は、新渡戸稲造や柳田国男たちがはじめたものだが、どの故郷の物語というのではなく、柳田は語りに衝撃を受ける。
この出会いがなければ、遠野物語が生まれなかった。誰か語り部がいないと出ないもの。

福島原発難民にはすごくたくさんの課題、宿題が潜んでいるのだろうと思う、
この会が、蕾を突破する何かを見出したようなので、今日はそれを見たいと思う。と語った。

●天の部/地に根差すものと編集:新地方学への誘い … 田母神顯二郎

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最初に「学問には、臭みがある、よくよくこの臭みをとってから使うようにしなさい」と三浦梅園の言葉を紹介する田母神代表。
福島に関わり、文化や自然や歴史を経験し、学んでいるのは自分の方。中央と地方の問題。中央は良かれと思っているが、地元が望んだものではないズレ。これが3.11後のフクシマの状況に如実にあらわれている。実はこれが、明治でも問題になっており、これが地方学の原点。
一筋縄にはいかないもので、今日のイベント全体を通して、感じ取って欲しい。

「エディットふくしま」を創刊したのは、福島のことを多くの人に知ってもらいたいからである。福島の宝を縦横無尽にパサージュして、フクシマ再生の突破口を開ければと思っている。私たちは、変化してやまない福島の今を編集している。動いていく福島をどう編集し、伝えていくか。今、福島では、全ての人々が、日々必死に編集している。福島を編集するのは、編集する福島を編集する。編集している人を編集すること。
福島の三つの山脈でわかれた浜通り、中通り、会津地方の特徴を説明し、江戸時代14藩に分かれたいた歴史を振り返り福島を「多島海」と名付けたい。福島は超部分。部分は部分でも、全体に属している訳でなく、一種の断片、断片であるけど全体である、その超部分であると考えている。言い換えると超地方、超地域という言葉になるだろう。
福島のことを考える時には、「地」に根差したものと「天」の両方考えていきたい。人は、その間で耕していく。人も天や地に繋がっていることを思い浮かべて、ふくしまの編集に向かうことが大切なんだと思う。と語った。

●地の部/蛙の里・川内村探訪記:映像とスライド

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阿武隈山系に囲まれた川内村。照葉樹、常緑樹が多い。常世の国と阿武隈山系が重なって見えたと田母神。
10月に訪問した時のスライドを見ながら、草野心平が住んだ天山文庫、アオモリカエルの繁殖地である平伏沼、そこにはミズナラ、ブナ、クヌギの森が広がる清流、渓流が流れる山の豊かさがあると語る。山の恵みを生業にしていた村。戦前から戦後には炭の生産が日本一で、残っていた炭焼小屋は、3.11後にすべて壊滅した。村特産のシイタケも原発事故の影響で作られなくなった。
蛙の詩人としても有名な草野心平は、この村の名誉村民。川内の里山と村民を愛した草野心平へ、村の人が天山文庫を作ってくれて、死の直前まで年に数か月、ここに暮らしていた。

川内村で知り合った15代続く農家の秋元美誉さんとは、昨年10月私たちが川内村の「林の大杉」を探している時に知り合った。土を我が子のように愛し、農薬をほとんど使わない合鴨農法を実践している。しかし、2011年、川内村が全村避難となり、村内は稲作の作付禁止地域に指定された。秋元さんは、「田んぼを休ませるわけにはいかない」と田植えをした。秋になり、収穫された稲は、作付制限された地だったため、その場で土の中に捨てられた。この日、倉庫には新米が山積みになっていた。

山と共に生きる村の姿は宇宙的なものと繋がっているのではないかと感じた。

●人の部/3.11後のフクシマを生きる

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「ふくしまを考えめぐる一日」に参加して感じたことを話す吉村さんと司会の森井さん。

震災後の釜石にも行ったが、そこの津波の後には何もなかった。これも衝撃を受けたが、福島は今も震災の時のままにある。そのままなのに人が誰もない。全く質が違う問題がここにはあることを知った、と吉村さん。

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「エディットふくしま」のデザインを担当する緒方さん。読み手にどう伝えていくか、田母神と鈴木の文章を読みながら毎回考えている。

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このあと鈴木から大熊町から郡山で避難生活を送っている池田さんの震災体験を語った。
大熊町に生まれ、原発から5キロの自宅で2011年3月12日福島第一原子力発電所一号機の爆発した音をきいた。その日から避難生活が始まる。大熊から川内村へ、そして喜多方へ。震災から4か月後郡山の借り上げアパートにはいり、2012年12月には郡山の一軒家に住む。裏には人が入らなくなった山や畑がある。池田さんは、大熊町では養蚕とたばこをやっていたが、昭和40年頃開田した。その頃、冬の仕事がなくて毎年出稼ぎをしていた。その後原発で仕事をするが、何より出稼ぎがなくなり、保険に入れたことが一番良かったという。震災から4年8か月が過ぎた頃、ようやく語り始めた震災体験だった。
今は、郡山で畑を耕し、山の切株を取り除き、豊富な野菜をこの地から生み出している。

新たな地で一歩を踏み出した池田さんの生き方は、その場にいた者たちの胸を打っていた。

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●参加者の感想

 ・鈴木さんと田母神さんだけでなく、司会進行の森井さんを含め
  みなさんの声が響いていました。「語り部」が乗り移ったようでした。

 ・田母神さんのお話し、コンパクトだけれども非常にインフォーマティブで編集的に「方法」を捜っておられる様子がズシッと伝わってきました。中央とか官とかの“悪気はないが、、、”通じない施策というものを何とかしたいですね。
鈴木さんの“池田さんの話”は「方法の時代」の到来を予感させるもので、本楼にきて本当に良かったです
 「エディットふくしま」薄くてGoodですね。
 「川内村」の経験された不条理の話を聞き、更に土地の持つちからを再認識しました。

・新聞・テレビを見ているだけでは疎遠だった福島が、今日の語りを聴いて少しだけ近づき、手触りのあるリアルな場として感じられるようになった気がいたします。福島と、福島の自然についても、もっと知りたくなりました。ありがとうございました。

・最近、被災者関連の業務があり、どうやって処理したらよのかについてもっと深く考えてみようと思っていたところ、今回のイベントの案内をタイミングよく目にしました。
初めて知ることばかりで福島に暮らす人達に心を寄せることから暫く遠ざかっていたことを改めて反省する機会となりました。

・あの日から、皆それぞれの物語を抱えて、5年近くの歳月が経ち語り始めることが出来るようになったのだと思います。何度も語ることで語り手そのものが物語を編集し続けている、そのことの意味を私自身も考えていこうと思います。語りを受け止める聞き手の存在についても思いをいたすことにしようと思います。

・手編みのような1つ1つに手を入れた現物に寄り添ったお話をうかがいました。活動の拡散速度は小さいかもしれませんが、深くしっかり伝わってくる印象を持ちました。大変でしょうが、頑張っていただきたいです。
「開拓されないもの」のお話しは印象的でした。

・ふくしまの事を自分の側に引き寄せてとらえるには、その入り口さえわからず立ちすくんだような状態でした。本日のイベントで、鈴木さん、田母神さんの“エディット”によって自分の表現のきっかけとなりそうな予感がしています。道は振り返るとそこにあった、そんな活動になると思います。貴重な機会を作って下さり、感謝しております。

・事実の持つ重みをずっしりと感じました。
「語り部」の大切さは、記録として残すことと同時に、語る側の気持ちの整理になることだと思いました。きくこと、言葉を引き出すことって大事ですね。
東北についてももっと知りたい、学ばねばなと思いました。

・500年の土のお話しから、地方学の新渡戸稲造の農の話、そして池田さんの土の話が、物語、語りとして1つに繋がり頭の中でいろいろなものことと響き合いだしました。
まだ語られたことがないこと、誰も語ったことがないものが、語られる場所の物語編集にとても興味がわきました。これからもお二人のお話しを聞きたいです。出来れば一度参加してみたいと思います。

・事実の持つ重みをずっしりと感じました。
「語り部」の大切さは、記録として残すことと同時に、語る側の気持ちの整理になることだと思いました。きくこと、言葉を引き出すことって大事ですね。

・福島をいろいろな方法視点で「かたる」ことの意味を感じました。
福島(いわき)を故郷として強く意識したのは、震災があってからです。
「多島海」の島々が、自分たちの島は「福島というくくりの地域」にある島なのだ、と強く意識するようになったのは2011.3月以降なのでは、と感じます。

・東北についてももっと知りたい、学ばねばなと思いました。
ふくしまは我が事であること、このイベントに来るといつも感じます。
それは、同じことがいつ自分の身に起こっても不思議ではないということと、人は土地に繋がっている、誰かと繋がっている存在である、ということに於いて。
これからも応援しています。

・広島からたまたま出た折にメールで知り、急遽参加させてもらいましたが、非常に充実したあっという間の3時間でした。ありがとうございました。特に人の部の鈴木さんの話は心に響きました。長く顔を突き合わせて対話をしていかないと、語り部の本音もすくいとれないし、大変なことだと思います。勝手なことを言いますが、これからも声なき声をすくいとって発信してもらえたらと思います。
広島では、被爆のこともそうですが、人々の無関心に非常に危機感を感じています。節目の時だけでなく、これから耳を傾け、私なりに発信していきたいと思いました。

・ふくしまのこと、全く知りませんでした。
地形の頃、歴史のこと、そして福島に暮らす人のことも。
手入れされていない土地を耕し、畑を再生するように、イメージが固定化され、風化された福島の情報を耕すことがエディットふくしまの役割でもあるように感じました。

・初参加です。有志の方たちと聞いていたのですが、これほど大掛かりであることにびっくりしました。
しずかなる熱気を感じました。

                               レポート:鈴木康代

【10/11開催報告】ふくしまを考え巡る一日の感想(3)

2015.10.11開催しました「ふくしまを考えめぐる一日」に参加された方から感想をいただきました。こちらをご紹介いたします。

●●
 語り部のお二人の話を伺い、津波のあと、ほとんどそのまま時間の止まった
 富岡駅前に下り立ち、人のいなくなった町を走り抜けて、
 原発事故のとりかえしのつかなさに、愕然としました。
 宮城や岩手で津波被害が甚大だった場所とは、
 喪失の質がちがうのではないか、と感じました。         (東京都女性)


●●
 福島第一原発付近の警戒区域を巡り、除染の現場や人がいない町は、
 今でも東京では想像ができない状態でした。       (神奈川県女性)

●●
 語り部の方々の話、
 仮設住宅、そして警戒区域の様子……。
 本当に貴重な体験だったと思います。          (東京都男性)

●●
 郡山駅から始まったふくしま訪問。
 駅を出ると広場には県内に数千あるという線量計が迎えてくれました。
 どこでもドアで「震災にあった福島」に飛び出したかのような錯覚さえ感じました。
 その後、向かった禁止区域で見た駅舎が取り壊された富岡駅。その目の前の天地
 逆さまの自家用車たち。
 通過することだけが許されている道路脇で、すくすくと伸びたセイタカアワダチソウ。
 すべてが事実。まず知らなくては、と強く強く思い知らされました。 (東京都男性)

●●
郡山は力強い街だなあ、と思いました。
まず、郡山にある「富岡町3.11を語る会」の語り部さんから、震災から避難時の体験、現在までの富岡町住民の取り組みを聞きました。そのあと、仮設住宅内にある「おだがいさまセンター」へ。
集会所内の様子や富岡町民向けFM放送を発信しているFM局を見せていただきました。
集会所の本棚には様々なジャンルの書籍があり、所内だけでなく、郡山・いわきで行われる催しのチラシが揃っていました。
ちょうど一昨年前に、川俣・南相馬・小高・富岡・相馬・霊山・松島・石巻と被災地を回って、体験談を聞いていたのですが、
仮設住宅を訪問することができず、この一年ずっと心に残っていまし た。
情報から受ける印象でなく、今回、実際に仮設住宅を訪れ、5年近い時間をかけ人の力で培われてきた「場」を感じることで、
私の中にとても大きな安堵が生まれました。
鈴木さんや田母神代表が説明して下さった仮設住宅の現状が有する様々な問題を含め、「場」を体感し身体に移しとることから生まれる安堵です。

「この時期は、たわわに実った柿を見るのが一番切ない…」
車中、鈴木さんの言葉の先には、旧警戒区域の庭先の柿の木の実が鈴なりになっていました。
取りに帰る人のいない柿の実。震災から5度目の秋の、5度目の実。
そのオレンジ色の実は、私には、当日の雨交じりの空に浮かぶいくつもの夕日のように眩しかったけれど、鈴木さんは、痛そうな眼をして、家々の柿を見つめていました。柿とその家の人々のかつての暮らしが見えていたのかもしれません。

一年ぶりに訪れた、富岡町駅前は、シンボルであった駅名板が撤去され、線路から向こうの広大な土地に、低線量汚染物の処理所ができていました。右側の小さな丘の向こうには焼却炉ができていて、高濃度汚染の駅前の建物はそのままでしたが、「確実にできることから前進している」という実感がありま した。

今、まぶたに富岡駅前の光景を思い浮かべると、
「悲劇のままでは終わりたくない。ぼくはもっとポジティブでありたい」
郡山でそう語ってくれた富岡出身の21歳の語り部青年の姿が思い返されます。
前進する福島と私の身体に移しとった福島、その共鳴し合う二枝が多枝にそだち万果の実るまで見届けることができますように。

貴重な体験をありがとうございました。    (東京都女性)

●●●
復興が進む福島も、震災から時が止まったままの福島も、どちらもみえにくい現状があります。
福島は、浜通り、中通り、会津地方と三地方に分かれ、歴史の歩みも人々の生業も異なり、
各地域ごとに複雑な背景があります。
ただし、そこには、寒暑厳しい地を受け入れ、暮らしてきた先達の面影があります。

豊かさとは何か、進む復興と止まった町の両極にある福島を考えながらの
一日になりました。

みなさま、ありがとうございました。


【10/11ご報告】ふくしまを考えめぐる一日開催報告(2)

◆郡山市富田町にある若宮前仮設住宅へ

震災から4年が過ぎ、復興住宅へ移る方も増え、空き室も多くなりましたが、親子で犬の散歩をしたり、空き地でゲートボールをしたり、非日常が日常になっているようでした。ここまでどれだけの苦労があったのあろうか。
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参加された方が「仮設住宅に暮らす方々に触れられてよかった。暮らしがあること、実感できました」と話してくれました。ふくしまの人は声を上げない、とよく言われます。怒りや無念、悔しさは誰もが持っていたとしても、まず先に、今を日常とすることが大事で、怒りは我慢するしかないのかもしれないとも考えていました。

●被災地へ、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町

常磐自動車を通り、楢葉町、富岡町へ向かいました。
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震災から4年7か月の富岡駅前です。放射線の影響もあり、建物を取り壊すにも問題があるそうで、震災当時と変わらぬままの風景です。

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倒壊した家屋もそのまま、窓からは当時の衣類がそのままかけられています。

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草に囲まれた富岡駅のプラットホーム。むこう側の黒いフレコンバックの山は除染で出た土が入っています。ここに来るたびに、増えています。白い建物は、建設されたばかりの放射線が低い可燃物の仮置き場です。駅が取り壊され、可燃物の仮置き場が建設される。ここは、今も有事なのだと思います。

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◆国道6号線で、双葉町、大熊町、浪江町を通ります。
 この道は、自動車のみ通行可能になりましたが、車を停車したり、車から降りたりすることは未だに出来ません。

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至る所、バリケードがはられ、人の進入を拒んでます。

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人の出入りのない店舗は雑草に囲まれています。

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除染土を入れた黒いフレコンバック。

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震災から4年7か月。田畑の境は草に覆われ分からなくなっていました。ある農家の方が、「田植をしないと土が荒れてしまう」と話していたことを思い出していました。

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浪江ICから常磐自動車道に入ったところの放射線の数値。この日、通った道で一番数値が高いのがここでした。

ご参加いただいたみなさまの感想は、次にお届けします。

ご協力、ご支援いただいたみなさま、ありがとうございました。

レポート 鈴木康代

【10/11ご報告】ふくしまを考え巡る一日開催報告(1)

2015年10月11日(日)、小雨が上がった郡山からふくしまを考え巡る一日は始まりました。
文字色この日の参加者は、福島県内からの方もいれば、東京から新幹線でいらした方もいました。10時郡山駅に集まり、駅前広場にある放射線モニタリングポストの説明をしてから、マイクロバスに乗り込みました。
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福島県内のモニタリングポストは、4,700箇所あります。この数値がリアルタイムで文部科学省HPで見ることができます。私の職場にはありますが、年に一度の定期点検があり、その作業だけでもどれだけの手間がかかっているのだろうかと思うこともしばしば。

●富岡町3.11を語る会

最初の訪問先は、郡山市長者にある富岡町3.11を語る会。7月に開設したばかりで、ここで震災の語り部の方々から話を聞くことができます。今日は、震災の日、中学の卒業式だったという現在20歳の小椋くんと富岡町でお店を経営していた仲山さんから震災から避難生活、そして今に至るまで話を聞きました。
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(小椋くんから震災の話をうかがいます)

震災の翌日、富岡町から川内村へ避難をしたものの、原発から50キロ以内が危険という話が出て、郡山へ移り、その後、茨城へ家族と従妹たち11人で避難をしたそうです。
避難の途中、車を運転していたのはお母さん。その車中で、お母さんは、不安からストレスが溜まり、泣きながら怒っていたといいます。これまでそんなことがなかったのに、、、そう思っていたそうですが、子供も母の状況を考え、何も言わず受け止めていたそうです。祖母は、友人がいなくなり孤立し、富岡に帰りたいと言い、自分はゲームに夢中になるしかなかった。けど、母は「勉強しなさい」と言う。勉強道具は自宅に置いてきたのにもかかわらず。
震災から1か月半が過ぎた頃、高校が始まり、当初入学予定の高校は警戒区域内のため進学を断念し、避難先に近い高校へ編入学して高校生活が始まった。最初は、誰とも話せなかったが、少しずつ友人ができて、変わっていったといいます。
震災をきっかけにたくさんの縁に恵まれ、自分の半径が増えたと考えたら、気が楽になった。原発事故の受け止め方、考え方を変えていこうと思ったと話していました。
今日の縁も大切にしたい、と言葉を結びました。

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(富岡町の仲山さん)

仲山さんも避難の過程は、その道中だけでなく家族内でも大変な思いをされたそうです。今は、富岡町へ一時帰宅をするたびに、人のいない、無音のおそろしさ、世の中に私だけだろうか、と感じていたと言います。何も変わらない、音のない町、そう自分の故郷を語っていました。

富岡町に一時帰宅をする時は、必ず富岡駅に立ち寄っていたそうです。津波のあとの富岡駅は、以前のカタチではないものの、「よし、がんばっか」と駅をみるとそう思えた。しかし、富岡駅は、今年のはじめ取り壊されました。これをテレビのニュースで知り、心のよりどころを失った気持ちになったそうです。原発事故の時も、住民はテレビのニュースで知ることになり、置き去りにされていると感じてしまうと話してました。

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(取り壊される前の富岡駅 スライドにて)

駅というのは、町のシンボルであり、そこに住む人々の成長や行き交う人の物語、町の繁栄を記憶するトポスであるのかもしれない。人々が生業を持ち、暮らしがあって町になっていくものですが、帰宅困難区域や避難準備区域の境界の引き方は、地図上の数値によるもので、何かが大きくズレていることが伝わってきました。
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震災の体験、今の心境を語れる場があること、縁が繋がっていくこと、何よりこれを大切にしたいと話してくれました。

震災から5年目に入り、福島の今の状況に慣れてしまう時もありますが、やはり、文字にならない声に耳を傾けていかなければと思います。

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レポート 鈴木康代

2015.7.5実施 「ふくしまを考え巡る一日」開催報告

2015年7月5日、郡山市の仮設住宅と楢葉・富岡・双葉・大熊の被災地をめぐる「福島を考え巡る一日」を実施しました。
「避難している方から直接震災当時からこれまでの話を聴き」、その後「旧警戒区域である被災地をめぐる」ことで、福島の抱える課題と現状を知ってもらうことを目的として実施しました。当日は、東京在中の方が多く参加してくださいました。

集合は郡山駅、多くの人が行き交う駅は、どこにでもある風景ですが、駅改札口を抜けると、駅前広場に放射線測定器があるのは原発事故後の福島の現状です。地元新聞を手にした参加者の一人が「一面の見出しが東京とは違いますね」と一言。福島の新聞の一面には、福島第一原子力発電所の汚染水対策や廃炉に向けての記事や放射線に関すること、人々の復興へ向けての日々がよく掲載されています。この違いにまずは驚かれていました。

10:30 震災の語り部より話を聞く(富岡町の仮設住宅)

郡山駅を出発後、車を約10分ほど走らせ、郡山市富田町にある富岡町の仮設住宅へ。震災前は、福島県農業試験場でしたが、震災後、仮設住宅が建設され、2011年6月から入居可能となりました。

仮設住宅に到着すると、今日話をお聞きする富岡町の方、3人が待って下さっていました。
話を聞く場所は2DKの仮設住宅。玄関から縁側の窓まで13歩でいける広さです。

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「自分が震災のこと、避難することを人前で話すとは思っていなかった。しかし、こうして自分の話を聞いてくれる人がいること、うれしいのです」と語りかけてくれました。

<震災の語り部の方の話>
●震災の翌日の朝、「避難してください」と町内アナウンスが流れ、すぐ帰ってくるだろうと思い、車に乗り込んだ。富岡町から川内村へ通じる道は、避難する車で大渋滞。通常30分ほどの近さでも数時間もかかり、川内村の避難所へ到着。避難所でも家畜の牛が心配で、警戒区域に指定され立入制限される4月までに1週間に一度、エサやりに帰っていた。その後、自分の牛たちは、殺処分されてしまった。

●避難所から仮設住宅へ入居する際に、富岡町で住んでいた行政区とは関係なく、仮設住宅が割り振られたので、誰も知り合いがいない仮設住宅で、一人ふさぎ込む生活が続いた。富岡の家は、第二原発の建屋が見える海岸近くにあり、タービンの音も聞こえていた。震災時は、津波の被害にあい、自分は逃げたから助かった。今、自宅があった場所の目の前には、放射線数値が低い可燃物などを燃やす焼却炉が出来てしまい、辺りには黒いフレコンバック(除染で出た土を入れた土嚢)が山のように重なり、以前の風景とは一変してしまった。もし、自宅に還れるとなってもそういう場所には住めないと思っている。
最初は、孤独だった仮設住宅での生活だったが、なるべく集会所での集まりに出て行こうと思い、フラダンスや手仕事などを始めた。そのうち、周りの方が慕ってくれるようになり、今ではいろんな人が集まることをやっている。今度、復興住宅へ転居する予定だが、そこはどんな方が住むかも分からず、これまでのコミュニティを新たに築くのは難しいと思っているので、仮設住宅の集会所にまたこようと思う。

●県外に住む孫が郡山の仮設住宅にも帰省した時、「ここは、富岡の故郷の匂いではない」と言った。「なんで、ばあちゃんはここにいんだから」と言うと、「違う。ここじゃない」と言われた。自分には、匂いの違いが分からないが、子供ながらに富岡町の木々の緑や風などの目に見えないものを感じ取っているんだと思った。自分は、原発が建設され、町に仕事が増えて、活気づいてきて、ここに原発が出来て良かったと思っていた。でも、今となっては、そう思っていた自分を責める時がある。
孫の一人は、避難先の猪苗代町の小学校へ通っている。運動会でのこと、一人だけ色の違う運動着を着ていて目立っていた。孫は、「運動着は富岡の小学校のものを着る。兄姉が着た運動着がいい」と言い、喜んで色の違う運動着を着ていた。兄姉と同じものを着たい、そういう子供の気持ちも知った。
また、昨日一時帰宅で富岡町の自宅へ行ったら、旦那の姿が見えなくなり、もしかしたら死ぬんじゃないか、と思い、焦って探したら、草が伸びきった玄関先の草刈りをしていた。「もう帰って来れないのだから、草刈しても無駄だよ」と言っても、無言で草刈りを続けていた。いつもは、仮設住宅でテレビばかりみて、あまり話さなかったけど、旦那は家を守ることが生きがいだったのかも、と思ってしまった。諦めようと思ってもそうはなかなかいかなくて。

語り部の方、三人三様のお話でした。
原発事故で失ったものは、子供から大人まで様々です。被災者が、喪失体験を言葉にして物語ること、これはとても大事なことだろうと思います。数値化される復興では語られず、埋もれていく「声なき声」を掬い上げることも求められるのだと思います。

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後ろに見えるのが仮設住宅の玄関です。自宅に招き入れてくれたような雰囲気の中で、話を聞きました。
福島では、「いいがら、はいりっせ」と言って、玄関先では話が終わらず、家に人を招き入れることが多いです。

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資料を見ながら、熱心に耳を傾ける参加者。避難所での様子など、質問しながら対話が続いていきます。
避難所では、ヨウ素剤があったそうですが、39歳以下優先に渡されたそうです。おそらく、各町ごとに対応が違ったのだと思います。

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仮設住宅敷地内にある集会所「おだがいさまセンター」の掲示板。何度も訪問している代表田母神からも普段の仮設住宅での暮らしを説明します。この集会所には、「おだがいさまFM」というラジオ局もあり、富岡町の方は、携帯端末があれば全国どこにいても聞くことが出来ます。遠くに避難してる方は、故郷の方言が懐かしくなるそうです。

◆13:30 被災地へ 楢葉町、富岡町
旧警戒区域(大熊町、双葉町)の6号線を北上


郡山市から常磐自動車道を通り楢葉町へ。
途中、なだらかで1000m以下の山並みが続く阿武隈高地の山間を通ります。雨上がりのこの日、青々とした緑の山々を見ながら車は進みます。車中では、福島の風土、震災当時の状況、避難の現状などを話しながら。中通りから浜通りへ近づいてくると送電線が増えてきます。福島の広さも感じ取ります。

◆天神岬公園(楢葉町)

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天神岬公園から。遠くに東京電力広野町火力発電所の白い煙突が見えます。「福島は、原子力発電所だけでなく火力発電所も多いのだ」と参加者の声。高台からは、除染の土が入った黒いフレコンバックの仮置き場が見えます。行き場のない土は、来るたびに増えています。

天神岬2
天神岬公園には、弥生時代の天神原遺跡もあります。近くには阿武隈山地を水源とする木戸川が流れ、鮭漁でにぎわっていた川もあります。
高台には、洋上展望台もあり、晴れの日には沖合20キロにある洋上風力発電の実証研修をしている「福島復興浮体式洋上ウィンドファーム」が見えます。
歴史の点々が混在している地でもあるかもしれません。

◆富岡町(駅前)

富岡線路
富岡1
震災から4年4か月。電車が走らない線路の草はこの通りです。震災からそのままの建物。ここは時が止まってしまっています。富岡町の方の話だと、旧警戒区域は、放射線量が高く、建物を取り壊しても瓦礫を持っていく場所もなく、どうしようもない、と言います。富岡町は、避難準備区域、帰宅困難区域など、いくつもの境界線が出来てしまいました。

富岡町駅前
富岡駅は取り壊され、向こう側に見える白い施設は、比較的放射線量の低い可燃物を燃やす施設で、今年建設されたそうです。除染土の黒いフレコンバックの山と可燃処理施設が並んでいます。人が離れてしまった土地に、また居住可能になるには、かなりの労力が必要になってきます。帰りたいけど、帰れない、富岡町の人々が語った苦悩が身に染みます。
東日本大震災の慰霊碑に手を合わて考えます。

◆大熊町、双葉町、6号線北上

旧警戒区域だった大熊町、双葉町の6号線は、自動車のみが行き交うことが出来るようになりましたが、途中で止まったり、引き返すことが出来ません。国道沿いの建物などの入り口には、バリケードがはられ立入出来ないようになっています。
放射線量も高いところが4μSV。4年を過ぎて人が住まない土地は、雑草がのび田畑の区切りも分からなくなってきました。時間が止ってしまったような場所。
福島第一原発近くも通りましたが、高いクレーンが並び、今もなお汚染水対策、廃炉に向けた作業をしていることが分かります。
6号線を北上し、南相馬に入り営業しているコンビニが見えてきます。海岸線には、高い防波堤の建設が進んでいました。
進む復興と止った時間。これらが混在する福島には、私たちが考える課題がたくさんあります。

「福島を考え巡る一日」は、次回も実施します。
参加を希望される方は、お気軽にご連絡下さい。


◆ 参加者の感想

●「仮設住宅の床の冷たさが妙に気になった、ということをお話ししました。
 床の暖かい環境を作り出すことが文明につながるのだとしたら、
 温めるための電気と文明の関係ってどうあるものなんだろう。
 そんなことを語り部の方々のお話しを拝聴したあとに考えていました。」 

●「福島は原発のイメージですが、火力発電所もたくさんあることに驚きました。
  驚いている自分にも驚きですが。
  自分の使う電力に対して余りにも無知で反省をしたはずなのし、未だに福島に頼り、
  それを理解していない東京もんは、怖い。自分たちを守るために、必要な情報を
  集めようとしたはずが、すでに喉元を過ぎているのでした。」

●「6号線を北上すると時間の軸が歪んでくるようです。
  あんなに来るなと言っている道路標識、「健康注意」は初めてみましたよ。その中を
  作業しに行くエフ一の人たちはどうなのだろう。
  住んでいた人たちはどう感じるのだろうと。
  セブンイレブンが見えていきなり文明圏に戻ったという気がしました。
  文明圏ではないと認識していたのですね。」

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  レポート 鈴木康代

5/10大熊町仮設住宅チャリティ・コンサートを開催して

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震災から4年2か月が過ぎる5月10日(日)会津若松市にある大熊町仮設住宅へチャリティ・コンサートで伺いました。
仮設住宅には、棟ごとに緊急を知らせる非常灯があります。一人暮らしの方も多く、体調の異変などがあった場合、仮設住宅内にあるボタンを押すとこの非常灯と音で知らせてくれます。この日のお昼、警察官がちょうど仮設住宅を訪問していて「こうして日々巡回してるんだわい」と、気軽に話しかけくださいました。孤立化が進む仮設住宅。切実な問いがあります。
当日は、大熊町へ一時帰宅で戻っている方もいました。会津若松から大熊町は、高速道路を使っても片道2時間以上はかかります。海の近い浜通りから、雪深い会津へ避難した方々は、気候に慣れるだけでも大変なことだったと思いますが、
「会津の生活にも慣れてきました」と話される方もいました。

5/10は、母の日。コンサートの曲には、「コスモス」と「ふるさと」もあり、共に歌い、共に泣き、異郷の地となってしまった大熊の故郷を思い出す時間となりました。
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ある方が、「ふるさとは、涙が出てだめなんです。私の家は、双葉翔陽高校の近くなんです。あの先の角で」と語り掛けて下さり、お互い点在する記憶を繋ぎ合わせ、大熊町の風景をアタマの中で描き出そうとしました。

震災から4年が過ぎ、どのように避難してきたかを自らの言葉で語ろうとする方もいました。震災直後は、壮絶な現実を語る言葉を持たなかった私たちは、喪失した言葉を探し始め、手探りながらも自らの体験を語り、他者と共有しようとしていると感じました。
記憶は想起されるのを待っていて、そのきっかけを私たち福島県民は探しているのかもしれません。

震災後、住み慣れ、隣近所も良く知る仲になったこの仮設住宅も、近い先になくなり、みなさんは、復興住宅や借り上げ住宅へ引っ越しを余儀なくされます。
福島の復興は、数値化され語られていますが、そこには反映されない小さき声が多数あります。
その「ふくしまの声」を聞き、「ふくしまを知ろうとすること」が、今、必要とされているのだろうと思います。


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帰宅困難区域の地域は、今もバリケードで区切られています。

   <2015.4.12撮影  夜ノ森の桜>

プロフィール

事務局 

Author:事務局 
代表 田母神顯二郎
(明治大学文学部教授)

活動内容 (2013年~)
・「仮設住宅訪問活動(チャリティコンサート開催)」(富岡町、大熊町、浪江町など)
・「福島考え巡る1日企画実施(震災語り部と被災地ツアー)」
・「東京と福島を繋ぐ復興イベント開催」(明治大学、豪徳寺開催)
・「福島新発見(福島の知宝の掘り起し)」など

メンバー 8名
事務局 鈴木
所在地 福島県県郡山市

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