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「原町無線塔」と関東大震災

福島県南相馬市には、大正時代、東洋一の高さを誇る「原町無線塔」がありました。

完成した年は1921年(大正10年)。当初は、鉄で建設される予定でしたが、第一次世界大戦の影響で鉄が高騰し、計画変更、鉄筋コンクリートとなりました。これが後に、白亜の塔と言われることになります。
その当時のものは、維持するのに10億、解体するのに5億と言われ、昭和56~57年に解体されましたが、住民の保存したいという思いで、1/10のスケールで解体された年に建設されました。今は、「憶・原町無線塔」と名付けられています。
この地に建設されたのは、地層が水平で安定していたから、という理由だそうです。
当時と違う場所に建設されてはいるものの、3.11大震災の大揺れにも動じずに今もたっています。

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( 憶・原町無線塔 2015年撮影)

9月1日の防災の日は、関東大震災がおきた日に由来しています。東京では一回目の大揺れのあと、一度に134カ所から火災が発生しました。ちょうど昼食の支度どきで、炭火などを使っていたから、火災の発生が多かったそうです。この火は、9月3日未明まで燃え続けて、通信が途絶し、汽車もストップしました。当時、福島出身で横浜にいた人は、4日間かけて福島に戻ってきたといいます。

関東大震災の混乱のなかで、原町の「白亜の煙突」から世界に“大震災発生”が打電されました。午後11時。

電文の内容はこちらです。

「本日正午横浜において、大震災についで、火災起こり全市ほとんど猛火の中にあり、死傷者算なく、すべての交通機関が途絶した」

巨大な高さ200mの「原町無線塔」。大正10年、第一次大戦後に、国際通信の必要から旧通信省が富岡町に受信所を、原町に送信所を建設していました。関東大震災では、通信網が途絶しましたが、横浜港沖に停泊中の船舶からの無電を富岡受信所がキャッチし、すぐさま原町送信所から“大震災第一報”のニュースが、ハワイ・ホノルルに向けて打電されました。これをサンフランシスコがキャッチ、新聞が伝え、世界中へ日本の首都の惨状のニュースがかけめぐることになります。

当時のアメリカの新聞には、
  「TOKYOーTOMIOKA-HONOLULU-SANFRANCISCO」
と地図入りで、大震災を世界に伝えたルート図が示されたそうです。

この後、通信技術の発達は、短波通信となり、原町送信所は昭和8年に10年間にわたる通信業務にピリオドを打ちました。

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 (2015年撮影)
         

参考文献『ふくしま一世紀』福島民友新聞社

【創刊のお知らせ】ふくしまを伝え、共に編む「エディットふくしま」創刊!!

ふくしまを伝え、共に考え、編んでいくパンフ「エディットふくしま」を創刊しました!
創刊号は、代表田母神顯二郎の「創刊のあいさつ」、震災後のふくしまを歩き考える「ふくしまを結う」などがあります。
わずか8ページのものですが、これから毎月お届けしていきます。
無料で配布していますので、ご連絡先をお教えいただければお送りします。
ファックス又はメールにてご連絡ください。

連絡先: FAX 024-942-6406  E-mail skyasu39@yahoo.co.jp
     ふくしま再生プロジェクト 鈴木

【福島を知る支援】<ふくしまを考え巡る1日>のご案内

福島には、大震災で露呈した負の断片がいたるところにあります。
これらは、福島だけでなく日本に共通するものだと思いますが、それを福島の人だけでなく他地域に住む方々にも触れてもらい、
福島の抱えている問題を共に考えていきたいと思い計画しました。

当日は、今も避難生活を続けている富岡町の仮設住宅(郡山市)を訪問し、震災の「語り部」から当時の状況をお聞きします。どのような経験をされたのか、当事者の方にお話をうかがえる貴重な機会です。
さらに、その後、実際に警戒区域を巡り、人のいない町はどうなったのか、除染の現場はどのような状態なのか、被災地の現状を見ていただきます。福島は広いです。避難された方々は、郡山から故郷までの遠い道のりを何度も通っています。
これも経験できると思います。

当事者の話を聞き、福島を巡り、どのように考えたのか、最後は、感想を交し合います。他者の意見に触れながら、福島を考えることを深めていきたいと思います。

福島を考え巡る1日は、「福島を知る支援」という新しい形を提案していきたいと思っています。

 実施日  2015年7月5日(日)
 
 問い合わせ先  ふくしま再生プロジェクトの会  鈴木  090-8782-2774

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【ふくしまを歩く】 前沢曲屋集落 ~南会津町 舘岩地区 ~

郡山市から、天栄村を抜けて下郷町、そして田島町を通り、車で2時間30分。
国道352号に入り、川沿いを走っていくと、道路沿いに木の工房がいくつかある。

軒下に山積みの薪が並び、木と共に生活している様子がうかがえる。
この先に、前沢曲屋集落がある。今もここには人々暮らしている。

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前沢集落に入ると、水車と杵のバッタンという音と馬頭観音、馬力神が
出迎えてくれる。

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前沢曲家集落は、文禄年間(1592年~1595年)に、只見川流域を拝領した
横田城主の家臣が、移り住んだとされるのは始まり。
「中世に会津武士が拓いた集落」として言い伝えられている。

曲屋というのは、L字に曲がった住まいのこと。突出した部分は、当時、農耕や
運搬に欠かせない大切な馬や牛がいたところ。その奥が人間の住まいになって
いる。同じ屋根の下に、人間と同じように馬や牛が暮らしていた。
人と馬との共存するところで、信頼関係すら感じられる。

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突風で倒れたという集落の守り神だった樹齢800年の大杉の後を見ていると、
集落に住む男性が声をかけてくれた。

「時間あるなら映像があるけど見るかい。自由にあがっせ」

そう言うと、また農作業に戻っていった。

この地は、豪雪地帯、外圧厳しい環境の集落の暮らしがあった。
冬は雪に囲まれる。薪は、暖を与え、湯をもたらす。
木こりを生業にする高齢の男性が、こう語っていた。

「斧で木を切り倒して、自分たちは木の命をもらう。
 木がないと自分たちが生きれないんだ。」
 
この地では、トチ餅を食べる。祭りのお供え物としても作る。
縄文時代から食されていたという栃の実。
食するまでには手間がかかるが、この実のあく抜きには、木灰を用いる。
木は、燃え尽きてもなお新たな食を生み出してくれる。

雪に囲まれた里山、ここには生死の境界が近くに感じる分、
日々の丁寧な暮らしがある。

集落のある曲屋には、人々が受け継いできた農具が並んでいた。
文字の記録ではなく、農具が人々の生活を記憶していた。

帰り際、農作業の手を止めた男性から、

「ここのだから、持っていきっせ」

と水をいただいた。
これ以上の説明もない。
寡黙さが優しさを一層引き出していた。


<前沢集落>
プロフィール

事務局 

Author:事務局 
代表 田母神顯二郎
(明治大学文学部教授)

活動内容 (2013年~)
・「仮設住宅訪問活動(チャリティコンサート開催)」(富岡町、大熊町、浪江町など)
・「福島考え巡る1日企画実施(震災語り部と被災地ツアー)」
・「東京と福島を繋ぐ復興イベント開催」(明治大学、豪徳寺開催)
・「福島新発見(福島の知宝の掘り起し)」など

メンバー 8名
事務局 鈴木
所在地 福島県県郡山市

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