2015.7.5実施 「ふくしまを考え巡る一日」開催報告
2015年7月5日、郡山市の仮設住宅と楢葉・富岡・双葉・大熊の被災地をめぐる「福島を考え巡る一日」を実施しました。
「避難している方から直接震災当時からこれまでの話を聴き」、その後「旧警戒区域である被災地をめぐる」ことで、福島の抱える課題と現状を知ってもらうことを目的として実施しました。当日は、東京在中の方が多く参加してくださいました。
集合は郡山駅、多くの人が行き交う駅は、どこにでもある風景ですが、駅改札口を抜けると、駅前広場に放射線測定器があるのは原発事故後の福島の現状です。地元新聞を手にした参加者の一人が「一面の見出しが東京とは違いますね」と一言。福島の新聞の一面には、福島第一原子力発電所の汚染水対策や廃炉に向けての記事や放射線に関すること、人々の復興へ向けての日々がよく掲載されています。この違いにまずは驚かれていました。
◆10:30 震災の語り部より話を聞く(富岡町の仮設住宅)
郡山駅を出発後、車を約10分ほど走らせ、郡山市富田町にある富岡町の仮設住宅へ。震災前は、福島県農業試験場でしたが、震災後、仮設住宅が建設され、2011年6月から入居可能となりました。
仮設住宅に到着すると、今日話をお聞きする富岡町の方、3人が待って下さっていました。
話を聞く場所は2DKの仮設住宅。玄関から縁側の窓まで13歩でいける広さです。

「自分が震災のこと、避難することを人前で話すとは思っていなかった。しかし、こうして自分の話を聞いてくれる人がいること、うれしいのです」と語りかけてくれました。
<震災の語り部の方の話>
●震災の翌日の朝、「避難してください」と町内アナウンスが流れ、すぐ帰ってくるだろうと思い、車に乗り込んだ。富岡町から川内村へ通じる道は、避難する車で大渋滞。通常30分ほどの近さでも数時間もかかり、川内村の避難所へ到着。避難所でも家畜の牛が心配で、警戒区域に指定され立入制限される4月までに1週間に一度、エサやりに帰っていた。その後、自分の牛たちは、殺処分されてしまった。
●避難所から仮設住宅へ入居する際に、富岡町で住んでいた行政区とは関係なく、仮設住宅が割り振られたので、誰も知り合いがいない仮設住宅で、一人ふさぎ込む生活が続いた。富岡の家は、第二原発の建屋が見える海岸近くにあり、タービンの音も聞こえていた。震災時は、津波の被害にあい、自分は逃げたから助かった。今、自宅があった場所の目の前には、放射線数値が低い可燃物などを燃やす焼却炉が出来てしまい、辺りには黒いフレコンバック(除染で出た土を入れた土嚢)が山のように重なり、以前の風景とは一変してしまった。もし、自宅に還れるとなってもそういう場所には住めないと思っている。
最初は、孤独だった仮設住宅での生活だったが、なるべく集会所での集まりに出て行こうと思い、フラダンスや手仕事などを始めた。そのうち、周りの方が慕ってくれるようになり、今ではいろんな人が集まることをやっている。今度、復興住宅へ転居する予定だが、そこはどんな方が住むかも分からず、これまでのコミュニティを新たに築くのは難しいと思っているので、仮設住宅の集会所にまたこようと思う。
●県外に住む孫が郡山の仮設住宅にも帰省した時、「ここは、富岡の故郷の匂いではない」と言った。「なんで、ばあちゃんはここにいんだから」と言うと、「違う。ここじゃない」と言われた。自分には、匂いの違いが分からないが、子供ながらに富岡町の木々の緑や風などの目に見えないものを感じ取っているんだと思った。自分は、原発が建設され、町に仕事が増えて、活気づいてきて、ここに原発が出来て良かったと思っていた。でも、今となっては、そう思っていた自分を責める時がある。
孫の一人は、避難先の猪苗代町の小学校へ通っている。運動会でのこと、一人だけ色の違う運動着を着ていて目立っていた。孫は、「運動着は富岡の小学校のものを着る。兄姉が着た運動着がいい」と言い、喜んで色の違う運動着を着ていた。兄姉と同じものを着たい、そういう子供の気持ちも知った。
また、昨日一時帰宅で富岡町の自宅へ行ったら、旦那の姿が見えなくなり、もしかしたら死ぬんじゃないか、と思い、焦って探したら、草が伸びきった玄関先の草刈りをしていた。「もう帰って来れないのだから、草刈しても無駄だよ」と言っても、無言で草刈りを続けていた。いつもは、仮設住宅でテレビばかりみて、あまり話さなかったけど、旦那は家を守ることが生きがいだったのかも、と思ってしまった。諦めようと思ってもそうはなかなかいかなくて。
語り部の方、三人三様のお話でした。
原発事故で失ったものは、子供から大人まで様々です。被災者が、喪失体験を言葉にして物語ること、これはとても大事なことだろうと思います。数値化される復興では語られず、埋もれていく「声なき声」を掬い上げることも求められるのだと思います。

後ろに見えるのが仮設住宅の玄関です。自宅に招き入れてくれたような雰囲気の中で、話を聞きました。
福島では、「いいがら、はいりっせ」と言って、玄関先では話が終わらず、家に人を招き入れることが多いです。

資料を見ながら、熱心に耳を傾ける参加者。避難所での様子など、質問しながら対話が続いていきます。
避難所では、ヨウ素剤があったそうですが、39歳以下優先に渡されたそうです。おそらく、各町ごとに対応が違ったのだと思います。

仮設住宅敷地内にある集会所「おだがいさまセンター」の掲示板。何度も訪問している代表田母神からも普段の仮設住宅での暮らしを説明します。この集会所には、「おだがいさまFM」というラジオ局もあり、富岡町の方は、携帯端末があれば全国どこにいても聞くことが出来ます。遠くに避難してる方は、故郷の方言が懐かしくなるそうです。
◆13:30 被災地へ 楢葉町、富岡町
旧警戒区域(大熊町、双葉町)の6号線を北上
郡山市から常磐自動車道を通り楢葉町へ。
途中、なだらかで1000m以下の山並みが続く阿武隈高地の山間を通ります。雨上がりのこの日、青々とした緑の山々を見ながら車は進みます。車中では、福島の風土、震災当時の状況、避難の現状などを話しながら。中通りから浜通りへ近づいてくると送電線が増えてきます。福島の広さも感じ取ります。
◆天神岬公園(楢葉町)


天神岬公園から。遠くに東京電力広野町火力発電所の白い煙突が見えます。「福島は、原子力発電所だけでなく火力発電所も多いのだ」と参加者の声。高台からは、除染の土が入った黒いフレコンバックの仮置き場が見えます。行き場のない土は、来るたびに増えています。

天神岬公園には、弥生時代の天神原遺跡もあります。近くには阿武隈山地を水源とする木戸川が流れ、鮭漁でにぎわっていた川もあります。
高台には、洋上展望台もあり、晴れの日には沖合20キロにある洋上風力発電の実証研修をしている「福島復興浮体式洋上ウィンドファーム」が見えます。
歴史の点々が混在している地でもあるかもしれません。
◆富岡町(駅前)


震災から4年4か月。電車が走らない線路の草はこの通りです。震災からそのままの建物。ここは時が止まってしまっています。富岡町の方の話だと、旧警戒区域は、放射線量が高く、建物を取り壊しても瓦礫を持っていく場所もなく、どうしようもない、と言います。富岡町は、避難準備区域、帰宅困難区域など、いくつもの境界線が出来てしまいました。

富岡駅は取り壊され、向こう側に見える白い施設は、比較的放射線量の低い可燃物を燃やす施設で、今年建設されたそうです。除染土の黒いフレコンバックの山と可燃処理施設が並んでいます。人が離れてしまった土地に、また居住可能になるには、かなりの労力が必要になってきます。帰りたいけど、帰れない、富岡町の人々が語った苦悩が身に染みます。
東日本大震災の慰霊碑に手を合わて考えます。
◆大熊町、双葉町、6号線北上
旧警戒区域だった大熊町、双葉町の6号線は、自動車のみが行き交うことが出来るようになりましたが、途中で止まったり、引き返すことが出来ません。国道沿いの建物などの入り口には、バリケードがはられ立入出来ないようになっています。
放射線量も高いところが4μSV。4年を過ぎて人が住まない土地は、雑草がのび田畑の区切りも分からなくなってきました。時間が止ってしまったような場所。
福島第一原発近くも通りましたが、高いクレーンが並び、今もなお汚染水対策、廃炉に向けた作業をしていることが分かります。
6号線を北上し、南相馬に入り営業しているコンビニが見えてきます。海岸線には、高い防波堤の建設が進んでいました。
進む復興と止った時間。これらが混在する福島には、私たちが考える課題がたくさんあります。
「福島を考え巡る一日」は、次回も実施します。
参加を希望される方は、お気軽にご連絡下さい。
◆ 参加者の感想
●「仮設住宅の床の冷たさが妙に気になった、ということをお話ししました。
床の暖かい環境を作り出すことが文明につながるのだとしたら、
温めるための電気と文明の関係ってどうあるものなんだろう。
そんなことを語り部の方々のお話しを拝聴したあとに考えていました。」
●「福島は原発のイメージですが、火力発電所もたくさんあることに驚きました。
驚いている自分にも驚きですが。
自分の使う電力に対して余りにも無知で反省をしたはずなのし、未だに福島に頼り、
それを理解していない東京もんは、怖い。自分たちを守るために、必要な情報を
集めようとしたはずが、すでに喉元を過ぎているのでした。」
●「6号線を北上すると時間の軸が歪んでくるようです。
あんなに来るなと言っている道路標識、「健康注意」は初めてみましたよ。その中を
作業しに行くエフ一の人たちはどうなのだろう。
住んでいた人たちはどう感じるのだろうと。
セブンイレブンが見えていきなり文明圏に戻ったという気がしました。
文明圏ではないと認識していたのですね。」

レポート 鈴木康代
「避難している方から直接震災当時からこれまでの話を聴き」、その後「旧警戒区域である被災地をめぐる」ことで、福島の抱える課題と現状を知ってもらうことを目的として実施しました。当日は、東京在中の方が多く参加してくださいました。
集合は郡山駅、多くの人が行き交う駅は、どこにでもある風景ですが、駅改札口を抜けると、駅前広場に放射線測定器があるのは原発事故後の福島の現状です。地元新聞を手にした参加者の一人が「一面の見出しが東京とは違いますね」と一言。福島の新聞の一面には、福島第一原子力発電所の汚染水対策や廃炉に向けての記事や放射線に関すること、人々の復興へ向けての日々がよく掲載されています。この違いにまずは驚かれていました。
◆10:30 震災の語り部より話を聞く(富岡町の仮設住宅)
郡山駅を出発後、車を約10分ほど走らせ、郡山市富田町にある富岡町の仮設住宅へ。震災前は、福島県農業試験場でしたが、震災後、仮設住宅が建設され、2011年6月から入居可能となりました。
仮設住宅に到着すると、今日話をお聞きする富岡町の方、3人が待って下さっていました。
話を聞く場所は2DKの仮設住宅。玄関から縁側の窓まで13歩でいける広さです。

「自分が震災のこと、避難することを人前で話すとは思っていなかった。しかし、こうして自分の話を聞いてくれる人がいること、うれしいのです」と語りかけてくれました。
<震災の語り部の方の話>
●震災の翌日の朝、「避難してください」と町内アナウンスが流れ、すぐ帰ってくるだろうと思い、車に乗り込んだ。富岡町から川内村へ通じる道は、避難する車で大渋滞。通常30分ほどの近さでも数時間もかかり、川内村の避難所へ到着。避難所でも家畜の牛が心配で、警戒区域に指定され立入制限される4月までに1週間に一度、エサやりに帰っていた。その後、自分の牛たちは、殺処分されてしまった。
●避難所から仮設住宅へ入居する際に、富岡町で住んでいた行政区とは関係なく、仮設住宅が割り振られたので、誰も知り合いがいない仮設住宅で、一人ふさぎ込む生活が続いた。富岡の家は、第二原発の建屋が見える海岸近くにあり、タービンの音も聞こえていた。震災時は、津波の被害にあい、自分は逃げたから助かった。今、自宅があった場所の目の前には、放射線数値が低い可燃物などを燃やす焼却炉が出来てしまい、辺りには黒いフレコンバック(除染で出た土を入れた土嚢)が山のように重なり、以前の風景とは一変してしまった。もし、自宅に還れるとなってもそういう場所には住めないと思っている。
最初は、孤独だった仮設住宅での生活だったが、なるべく集会所での集まりに出て行こうと思い、フラダンスや手仕事などを始めた。そのうち、周りの方が慕ってくれるようになり、今ではいろんな人が集まることをやっている。今度、復興住宅へ転居する予定だが、そこはどんな方が住むかも分からず、これまでのコミュニティを新たに築くのは難しいと思っているので、仮設住宅の集会所にまたこようと思う。
●県外に住む孫が郡山の仮設住宅にも帰省した時、「ここは、富岡の故郷の匂いではない」と言った。「なんで、ばあちゃんはここにいんだから」と言うと、「違う。ここじゃない」と言われた。自分には、匂いの違いが分からないが、子供ながらに富岡町の木々の緑や風などの目に見えないものを感じ取っているんだと思った。自分は、原発が建設され、町に仕事が増えて、活気づいてきて、ここに原発が出来て良かったと思っていた。でも、今となっては、そう思っていた自分を責める時がある。
孫の一人は、避難先の猪苗代町の小学校へ通っている。運動会でのこと、一人だけ色の違う運動着を着ていて目立っていた。孫は、「運動着は富岡の小学校のものを着る。兄姉が着た運動着がいい」と言い、喜んで色の違う運動着を着ていた。兄姉と同じものを着たい、そういう子供の気持ちも知った。
また、昨日一時帰宅で富岡町の自宅へ行ったら、旦那の姿が見えなくなり、もしかしたら死ぬんじゃないか、と思い、焦って探したら、草が伸びきった玄関先の草刈りをしていた。「もう帰って来れないのだから、草刈しても無駄だよ」と言っても、無言で草刈りを続けていた。いつもは、仮設住宅でテレビばかりみて、あまり話さなかったけど、旦那は家を守ることが生きがいだったのかも、と思ってしまった。諦めようと思ってもそうはなかなかいかなくて。
語り部の方、三人三様のお話でした。
原発事故で失ったものは、子供から大人まで様々です。被災者が、喪失体験を言葉にして物語ること、これはとても大事なことだろうと思います。数値化される復興では語られず、埋もれていく「声なき声」を掬い上げることも求められるのだと思います。

後ろに見えるのが仮設住宅の玄関です。自宅に招き入れてくれたような雰囲気の中で、話を聞きました。
福島では、「いいがら、はいりっせ」と言って、玄関先では話が終わらず、家に人を招き入れることが多いです。

資料を見ながら、熱心に耳を傾ける参加者。避難所での様子など、質問しながら対話が続いていきます。
避難所では、ヨウ素剤があったそうですが、39歳以下優先に渡されたそうです。おそらく、各町ごとに対応が違ったのだと思います。

仮設住宅敷地内にある集会所「おだがいさまセンター」の掲示板。何度も訪問している代表田母神からも普段の仮設住宅での暮らしを説明します。この集会所には、「おだがいさまFM」というラジオ局もあり、富岡町の方は、携帯端末があれば全国どこにいても聞くことが出来ます。遠くに避難してる方は、故郷の方言が懐かしくなるそうです。
◆13:30 被災地へ 楢葉町、富岡町
旧警戒区域(大熊町、双葉町)の6号線を北上
郡山市から常磐自動車道を通り楢葉町へ。
途中、なだらかで1000m以下の山並みが続く阿武隈高地の山間を通ります。雨上がりのこの日、青々とした緑の山々を見ながら車は進みます。車中では、福島の風土、震災当時の状況、避難の現状などを話しながら。中通りから浜通りへ近づいてくると送電線が増えてきます。福島の広さも感じ取ります。
◆天神岬公園(楢葉町)


天神岬公園から。遠くに東京電力広野町火力発電所の白い煙突が見えます。「福島は、原子力発電所だけでなく火力発電所も多いのだ」と参加者の声。高台からは、除染の土が入った黒いフレコンバックの仮置き場が見えます。行き場のない土は、来るたびに増えています。

天神岬公園には、弥生時代の天神原遺跡もあります。近くには阿武隈山地を水源とする木戸川が流れ、鮭漁でにぎわっていた川もあります。
高台には、洋上展望台もあり、晴れの日には沖合20キロにある洋上風力発電の実証研修をしている「福島復興浮体式洋上ウィンドファーム」が見えます。
歴史の点々が混在している地でもあるかもしれません。
◆富岡町(駅前)


震災から4年4か月。電車が走らない線路の草はこの通りです。震災からそのままの建物。ここは時が止まってしまっています。富岡町の方の話だと、旧警戒区域は、放射線量が高く、建物を取り壊しても瓦礫を持っていく場所もなく、どうしようもない、と言います。富岡町は、避難準備区域、帰宅困難区域など、いくつもの境界線が出来てしまいました。

富岡駅は取り壊され、向こう側に見える白い施設は、比較的放射線量の低い可燃物を燃やす施設で、今年建設されたそうです。除染土の黒いフレコンバックの山と可燃処理施設が並んでいます。人が離れてしまった土地に、また居住可能になるには、かなりの労力が必要になってきます。帰りたいけど、帰れない、富岡町の人々が語った苦悩が身に染みます。
東日本大震災の慰霊碑に手を合わて考えます。
◆大熊町、双葉町、6号線北上
旧警戒区域だった大熊町、双葉町の6号線は、自動車のみが行き交うことが出来るようになりましたが、途中で止まったり、引き返すことが出来ません。国道沿いの建物などの入り口には、バリケードがはられ立入出来ないようになっています。
放射線量も高いところが4μSV。4年を過ぎて人が住まない土地は、雑草がのび田畑の区切りも分からなくなってきました。時間が止ってしまったような場所。
福島第一原発近くも通りましたが、高いクレーンが並び、今もなお汚染水対策、廃炉に向けた作業をしていることが分かります。
6号線を北上し、南相馬に入り営業しているコンビニが見えてきます。海岸線には、高い防波堤の建設が進んでいました。
進む復興と止った時間。これらが混在する福島には、私たちが考える課題がたくさんあります。
「福島を考え巡る一日」は、次回も実施します。
参加を希望される方は、お気軽にご連絡下さい。
◆ 参加者の感想
●「仮設住宅の床の冷たさが妙に気になった、ということをお話ししました。
床の暖かい環境を作り出すことが文明につながるのだとしたら、
温めるための電気と文明の関係ってどうあるものなんだろう。
そんなことを語り部の方々のお話しを拝聴したあとに考えていました。」
●「福島は原発のイメージですが、火力発電所もたくさんあることに驚きました。
驚いている自分にも驚きですが。
自分の使う電力に対して余りにも無知で反省をしたはずなのし、未だに福島に頼り、
それを理解していない東京もんは、怖い。自分たちを守るために、必要な情報を
集めようとしたはずが、すでに喉元を過ぎているのでした。」
●「6号線を北上すると時間の軸が歪んでくるようです。
あんなに来るなと言っている道路標識、「健康注意」は初めてみましたよ。その中を
作業しに行くエフ一の人たちはどうなのだろう。
住んでいた人たちはどう感じるのだろうと。
セブンイレブンが見えていきなり文明圏に戻ったという気がしました。
文明圏ではないと認識していたのですね。」

レポート 鈴木康代