【10/11開催報告】ふくしまを考え巡る一日の感想(3)
2015.10.11開催しました「ふくしまを考えめぐる一日」に参加された方から感想をいただきました。こちらをご紹介いたします。
●●
語り部のお二人の話を伺い、津波のあと、ほとんどそのまま時間の止まった
富岡駅前に下り立ち、人のいなくなった町を走り抜けて、
原発事故のとりかえしのつかなさに、愕然としました。
宮城や岩手で津波被害が甚大だった場所とは、
喪失の質がちがうのではないか、と感じました。 (東京都女性)
●●
福島第一原発付近の警戒区域を巡り、除染の現場や人がいない町は、
今でも東京では想像ができない状態でした。 (神奈川県女性)
●●
語り部の方々の話、
仮設住宅、そして警戒区域の様子……。
本当に貴重な体験だったと思います。 (東京都男性)
●●
郡山駅から始まったふくしま訪問。
駅を出ると広場には県内に数千あるという線量計が迎えてくれました。
どこでもドアで「震災にあった福島」に飛び出したかのような錯覚さえ感じました。
その後、向かった禁止区域で見た駅舎が取り壊された富岡駅。その目の前の天地
逆さまの自家用車たち。
通過することだけが許されている道路脇で、すくすくと伸びたセイタカアワダチソウ。
すべてが事実。まず知らなくては、と強く強く思い知らされました。 (東京都男性)
●●
郡山は力強い街だなあ、と思いました。
まず、郡山にある「富岡町3.11を語る会」の語り部さんから、震災から避難時の体験、現在までの富岡町住民の取り組みを聞きました。そのあと、仮設住宅内にある「おだがいさまセンター」へ。
集会所内の様子や富岡町民向けFM放送を発信しているFM局を見せていただきました。
集会所の本棚には様々なジャンルの書籍があり、所内だけでなく、郡山・いわきで行われる催しのチラシが揃っていました。
ちょうど一昨年前に、川俣・南相馬・小高・富岡・相馬・霊山・松島・石巻と被災地を回って、体験談を聞いていたのですが、
仮設住宅を訪問することができず、この一年ずっと心に残っていまし た。
情報から受ける印象でなく、今回、実際に仮設住宅を訪れ、5年近い時間をかけ人の力で培われてきた「場」を感じることで、
私の中にとても大きな安堵が生まれました。
鈴木さんや田母神代表が説明して下さった仮設住宅の現状が有する様々な問題を含め、「場」を体感し身体に移しとることから生まれる安堵です。
「この時期は、たわわに実った柿を見るのが一番切ない…」
車中、鈴木さんの言葉の先には、旧警戒区域の庭先の柿の木の実が鈴なりになっていました。
取りに帰る人のいない柿の実。震災から5度目の秋の、5度目の実。
そのオレンジ色の実は、私には、当日の雨交じりの空に浮かぶいくつもの夕日のように眩しかったけれど、鈴木さんは、痛そうな眼をして、家々の柿を見つめていました。柿とその家の人々のかつての暮らしが見えていたのかもしれません。
一年ぶりに訪れた、富岡町駅前は、シンボルであった駅名板が撤去され、線路から向こうの広大な土地に、低線量汚染物の処理所ができていました。右側の小さな丘の向こうには焼却炉ができていて、高濃度汚染の駅前の建物はそのままでしたが、「確実にできることから前進している」という実感がありま した。
今、まぶたに富岡駅前の光景を思い浮かべると、
「悲劇のままでは終わりたくない。ぼくはもっとポジティブでありたい」
郡山でそう語ってくれた富岡出身の21歳の語り部青年の姿が思い返されます。
前進する福島と私の身体に移しとった福島、その共鳴し合う二枝が多枝にそだち万果の実るまで見届けることができますように。
貴重な体験をありがとうございました。 (東京都女性)
●●●
復興が進む福島も、震災から時が止まったままの福島も、どちらもみえにくい現状があります。
福島は、浜通り、中通り、会津地方と三地方に分かれ、歴史の歩みも人々の生業も異なり、
各地域ごとに複雑な背景があります。
ただし、そこには、寒暑厳しい地を受け入れ、暮らしてきた先達の面影があります。
豊かさとは何か、進む復興と止まった町の両極にある福島を考えながらの
一日になりました。
みなさま、ありがとうございました。
●●
語り部のお二人の話を伺い、津波のあと、ほとんどそのまま時間の止まった
富岡駅前に下り立ち、人のいなくなった町を走り抜けて、
原発事故のとりかえしのつかなさに、愕然としました。
宮城や岩手で津波被害が甚大だった場所とは、
喪失の質がちがうのではないか、と感じました。 (東京都女性)
●●
福島第一原発付近の警戒区域を巡り、除染の現場や人がいない町は、
今でも東京では想像ができない状態でした。 (神奈川県女性)
●●
語り部の方々の話、
仮設住宅、そして警戒区域の様子……。
本当に貴重な体験だったと思います。 (東京都男性)
●●
郡山駅から始まったふくしま訪問。
駅を出ると広場には県内に数千あるという線量計が迎えてくれました。
どこでもドアで「震災にあった福島」に飛び出したかのような錯覚さえ感じました。
その後、向かった禁止区域で見た駅舎が取り壊された富岡駅。その目の前の天地
逆さまの自家用車たち。
通過することだけが許されている道路脇で、すくすくと伸びたセイタカアワダチソウ。
すべてが事実。まず知らなくては、と強く強く思い知らされました。 (東京都男性)
●●
郡山は力強い街だなあ、と思いました。
まず、郡山にある「富岡町3.11を語る会」の語り部さんから、震災から避難時の体験、現在までの富岡町住民の取り組みを聞きました。そのあと、仮設住宅内にある「おだがいさまセンター」へ。
集会所内の様子や富岡町民向けFM放送を発信しているFM局を見せていただきました。
集会所の本棚には様々なジャンルの書籍があり、所内だけでなく、郡山・いわきで行われる催しのチラシが揃っていました。
ちょうど一昨年前に、川俣・南相馬・小高・富岡・相馬・霊山・松島・石巻と被災地を回って、体験談を聞いていたのですが、
仮設住宅を訪問することができず、この一年ずっと心に残っていまし た。
情報から受ける印象でなく、今回、実際に仮設住宅を訪れ、5年近い時間をかけ人の力で培われてきた「場」を感じることで、
私の中にとても大きな安堵が生まれました。
鈴木さんや田母神代表が説明して下さった仮設住宅の現状が有する様々な問題を含め、「場」を体感し身体に移しとることから生まれる安堵です。
「この時期は、たわわに実った柿を見るのが一番切ない…」
車中、鈴木さんの言葉の先には、旧警戒区域の庭先の柿の木の実が鈴なりになっていました。
取りに帰る人のいない柿の実。震災から5度目の秋の、5度目の実。
そのオレンジ色の実は、私には、当日の雨交じりの空に浮かぶいくつもの夕日のように眩しかったけれど、鈴木さんは、痛そうな眼をして、家々の柿を見つめていました。柿とその家の人々のかつての暮らしが見えていたのかもしれません。
一年ぶりに訪れた、富岡町駅前は、シンボルであった駅名板が撤去され、線路から向こうの広大な土地に、低線量汚染物の処理所ができていました。右側の小さな丘の向こうには焼却炉ができていて、高濃度汚染の駅前の建物はそのままでしたが、「確実にできることから前進している」という実感がありま した。
今、まぶたに富岡駅前の光景を思い浮かべると、
「悲劇のままでは終わりたくない。ぼくはもっとポジティブでありたい」
郡山でそう語ってくれた富岡出身の21歳の語り部青年の姿が思い返されます。
前進する福島と私の身体に移しとった福島、その共鳴し合う二枝が多枝にそだち万果の実るまで見届けることができますように。
貴重な体験をありがとうございました。 (東京都女性)
●●●
復興が進む福島も、震災から時が止まったままの福島も、どちらもみえにくい現状があります。
福島は、浜通り、中通り、会津地方と三地方に分かれ、歴史の歩みも人々の生業も異なり、
各地域ごとに複雑な背景があります。
ただし、そこには、寒暑厳しい地を受け入れ、暮らしてきた先達の面影があります。
豊かさとは何か、進む復興と止まった町の両極にある福島を考えながらの
一日になりました。
みなさま、ありがとうございました。