【10/11ご報告】ふくしまを考え巡る一日開催報告(1)
2015年10月11日(日)、小雨が上がった郡山からふくしまを考え巡る一日は始まりました。
文字色この日の参加者は、福島県内からの方もいれば、東京から新幹線でいらした方もいました。10時郡山駅に集まり、駅前広場にある放射線モニタリングポストの説明をしてから、マイクロバスに乗り込みました。

福島県内のモニタリングポストは、4,700箇所あります。この数値がリアルタイムで文部科学省HPで見ることができます。私の職場にはありますが、年に一度の定期点検があり、その作業だけでもどれだけの手間がかかっているのだろうかと思うこともしばしば。
●富岡町3.11を語る会
最初の訪問先は、郡山市長者にある富岡町3.11を語る会。7月に開設したばかりで、ここで震災の語り部の方々から話を聞くことができます。今日は、震災の日、中学の卒業式だったという現在20歳の小椋くんと富岡町でお店を経営していた仲山さんから震災から避難生活、そして今に至るまで話を聞きました。

(小椋くんから震災の話をうかがいます)
震災の翌日、富岡町から川内村へ避難をしたものの、原発から50キロ以内が危険という話が出て、郡山へ移り、その後、茨城へ家族と従妹たち11人で避難をしたそうです。
避難の途中、車を運転していたのはお母さん。その車中で、お母さんは、不安からストレスが溜まり、泣きながら怒っていたといいます。これまでそんなことがなかったのに、、、そう思っていたそうですが、子供も母の状況を考え、何も言わず受け止めていたそうです。祖母は、友人がいなくなり孤立し、富岡に帰りたいと言い、自分はゲームに夢中になるしかなかった。けど、母は「勉強しなさい」と言う。勉強道具は自宅に置いてきたのにもかかわらず。
震災から1か月半が過ぎた頃、高校が始まり、当初入学予定の高校は警戒区域内のため進学を断念し、避難先に近い高校へ編入学して高校生活が始まった。最初は、誰とも話せなかったが、少しずつ友人ができて、変わっていったといいます。
震災をきっかけにたくさんの縁に恵まれ、自分の半径が増えたと考えたら、気が楽になった。原発事故の受け止め方、考え方を変えていこうと思ったと話していました。
今日の縁も大切にしたい、と言葉を結びました。

(富岡町の仲山さん)
仲山さんも避難の過程は、その道中だけでなく家族内でも大変な思いをされたそうです。今は、富岡町へ一時帰宅をするたびに、人のいない、無音のおそろしさ、世の中に私だけだろうか、と感じていたと言います。何も変わらない、音のない町、そう自分の故郷を語っていました。
富岡町に一時帰宅をする時は、必ず富岡駅に立ち寄っていたそうです。津波のあとの富岡駅は、以前のカタチではないものの、「よし、がんばっか」と駅をみるとそう思えた。しかし、富岡駅は、今年のはじめ取り壊されました。これをテレビのニュースで知り、心のよりどころを失った気持ちになったそうです。原発事故の時も、住民はテレビのニュースで知ることになり、置き去りにされていると感じてしまうと話してました。

(取り壊される前の富岡駅 スライドにて)
駅というのは、町のシンボルであり、そこに住む人々の成長や行き交う人の物語、町の繁栄を記憶するトポスであるのかもしれない。人々が生業を持ち、暮らしがあって町になっていくものですが、帰宅困難区域や避難準備区域の境界の引き方は、地図上の数値によるもので、何かが大きくズレていることが伝わってきました。

震災の体験、今の心境を語れる場があること、縁が繋がっていくこと、何よりこれを大切にしたいと話してくれました。
震災から5年目に入り、福島の今の状況に慣れてしまう時もありますが、やはり、文字にならない声に耳を傾けていかなければと思います。

レポート 鈴木康代
文字色この日の参加者は、福島県内からの方もいれば、東京から新幹線でいらした方もいました。10時郡山駅に集まり、駅前広場にある放射線モニタリングポストの説明をしてから、マイクロバスに乗り込みました。

福島県内のモニタリングポストは、4,700箇所あります。この数値がリアルタイムで文部科学省HPで見ることができます。私の職場にはありますが、年に一度の定期点検があり、その作業だけでもどれだけの手間がかかっているのだろうかと思うこともしばしば。
●富岡町3.11を語る会
最初の訪問先は、郡山市長者にある富岡町3.11を語る会。7月に開設したばかりで、ここで震災の語り部の方々から話を聞くことができます。今日は、震災の日、中学の卒業式だったという現在20歳の小椋くんと富岡町でお店を経営していた仲山さんから震災から避難生活、そして今に至るまで話を聞きました。

(小椋くんから震災の話をうかがいます)
震災の翌日、富岡町から川内村へ避難をしたものの、原発から50キロ以内が危険という話が出て、郡山へ移り、その後、茨城へ家族と従妹たち11人で避難をしたそうです。
避難の途中、車を運転していたのはお母さん。その車中で、お母さんは、不安からストレスが溜まり、泣きながら怒っていたといいます。これまでそんなことがなかったのに、、、そう思っていたそうですが、子供も母の状況を考え、何も言わず受け止めていたそうです。祖母は、友人がいなくなり孤立し、富岡に帰りたいと言い、自分はゲームに夢中になるしかなかった。けど、母は「勉強しなさい」と言う。勉強道具は自宅に置いてきたのにもかかわらず。
震災から1か月半が過ぎた頃、高校が始まり、当初入学予定の高校は警戒区域内のため進学を断念し、避難先に近い高校へ編入学して高校生活が始まった。最初は、誰とも話せなかったが、少しずつ友人ができて、変わっていったといいます。
震災をきっかけにたくさんの縁に恵まれ、自分の半径が増えたと考えたら、気が楽になった。原発事故の受け止め方、考え方を変えていこうと思ったと話していました。
今日の縁も大切にしたい、と言葉を結びました。

(富岡町の仲山さん)
仲山さんも避難の過程は、その道中だけでなく家族内でも大変な思いをされたそうです。今は、富岡町へ一時帰宅をするたびに、人のいない、無音のおそろしさ、世の中に私だけだろうか、と感じていたと言います。何も変わらない、音のない町、そう自分の故郷を語っていました。
富岡町に一時帰宅をする時は、必ず富岡駅に立ち寄っていたそうです。津波のあとの富岡駅は、以前のカタチではないものの、「よし、がんばっか」と駅をみるとそう思えた。しかし、富岡駅は、今年のはじめ取り壊されました。これをテレビのニュースで知り、心のよりどころを失った気持ちになったそうです。原発事故の時も、住民はテレビのニュースで知ることになり、置き去りにされていると感じてしまうと話してました。

(取り壊される前の富岡駅 スライドにて)
駅というのは、町のシンボルであり、そこに住む人々の成長や行き交う人の物語、町の繁栄を記憶するトポスであるのかもしれない。人々が生業を持ち、暮らしがあって町になっていくものですが、帰宅困難区域や避難準備区域の境界の引き方は、地図上の数値によるもので、何かが大きくズレていることが伝わってきました。

震災の体験、今の心境を語れる場があること、縁が繋がっていくこと、何よりこれを大切にしたいと話してくれました。
震災から5年目に入り、福島の今の状況に慣れてしまう時もありますが、やはり、文字にならない声に耳を傾けていかなければと思います。

レポート 鈴木康代